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旅愁 小学生の時に先生に録音をしてみないか・・・と言われ『旅愁』をセルロイド盤のレコードに録音した。僕が歌うことを意識するきっかけとなった。

高校三年生の夏 親父がピアノを買ってくれました。毎日毎日練習して音大に入りました。それがスタートだったんだなぁ・・・と思う。

シャンソンとの出会い 上京した時は流行歌手になる・・・と思っていたはずなのに。夜来香というシャンソン喫茶で歌っている先輩の姿を見て、シャンソンを習いたいと相談したら、深緑夏代先生の家に連れていかれた・・・それがシャンソンとの出会いだった。

銀巴里 最初はウェイターとして面接を受けた銀巴里、毎日どれだけ多くのシャンソンを聞いていただろう・・・1967年銀巴里で初めて歌った・・・20才の時だった…それから閉店までずっと青春時代を銀巴里で過ごした。

宝塚音楽学校 深緑先生と一緒に宝塚にレッスンに初めて行ったのは25才位の頃だっただろうか?伴奏なんてしたことの無い僕にとって、消えて無くなりたいほど大変なことだった・・・年もさほど違わない女性たちに囲まれて、伴奏もままならないのに、キーチェンジをしながら伴奏をするという、今思い出してもあんな無謀な事をよくしたなぁと思う。後半には伴奏のみではなく歌唱指導まで努めていた。そしてその経験が今の僕にとってどれだけ大きな宝物になっているかわからない。

パリ祭 雨だっ!そんな事が何度あったろう。パリ祭が始まった頃、会場は日比谷の野外音楽堂だった。

最初にパリ祭に出演してからそろそろ50年を向かえる・・・一体何才から歌ってたんだろう・・・ジュンヌエトワール・サンクオム・グランゾム・・・そして今でもいつも広瀬敏郎さんは一緒に歌っている。

ミュージカル 若い頃、パントマイムやタップダンスのレッスンに通っていた。芝居の勉強は特にしたことが無い、歌手の部分を買われてかミュージカルの舞台には何度か声がかかった。ミュージックマンから始まり、栗原小巻さんがヒロイン役だったファンタスティックスでのエル・ガヨ役、ルースターハーニガン役を務めたアニーは全国を回った、どの作品もとても思い出深い作品でした。そんな経験が今の歌を唄う自分の基礎になっている。

サンクオム〜グランゾム・・・ しますえよしおさん、村上進さん、広瀬敏郎さん、青木裕史さんそして僕の5人でサンクオムというグループで活動していたのは今から20年以上前の事だった。当時のパリ祭のプロデューサーの発案で、全国でコンサートをして、パリ公演にまで出かけた。リーヌルノーさんと一緒にアンドレマルロー劇場やパラディ・ラタンで歌った。
芦野宏先生がコマンドール賞を受賞してシラク大統領が未だパリ市長だった頃で、僕達も一緒に招かれてパリ市長舎に行ったり、
ステージが始まったのにマイクを持っていなかったり。楽しい思い出が沢山ある・・・


パリ パリへは仕事やプライベートで何度か出かけた。エッフェル塔やシャンゼリゼももちろんパリだが、僕にとってのパリはローマ通りの楽譜屋さんやアンギャン競馬場・・・パリの人達ですらあまり知らないような場所・・・普通の人々の何気ない日常がある風景・・・フランス語が得意なわけでもないのに・・・ル トューフ シルブプレ!(Le turf si'l vouz plat!) と新聞スタンドで怖々伝えた手元に競馬新聞が渡された時のあの嬉しさ。日本が一番好きだけど。もし日本以外だったらやっぱりパリに住んでみたい。

FM鹿児島 シャンソン ポピュレール やはり20年ほど前になるだろうか、FM鹿児島でシャンソン ポピュレールという番組をしていたことがある。毎月1回鹿児島に録音に行って、4週分の番組を録ってくるということを2年間ほどしていたであろうか・・・構成.脚本・しゃべりと全部自分一人で行っていたので、大変ではあったが、とてもやりがいのある仕事だった。

ステュディオ モン・マルシェスタジオを学芸大学に開設して今年であっと言う間に27年が経つ。宝塚音楽学校に深緑夏代先生に同行して教えていたのが、僕にとって教えるという原点だ。その後あちこちのカルチャーやサロン形式のレッスンを行って、青山の自宅や渋谷の三浦ピアノでプライベートレッスンを行っていた。その頃ちょうど30年ほど前になるかなぁ・・・自分のスタジオが持てたらなぁと漠然と思っていた。色々な出会いが重なって今の場所にスタジオを開設することが出来た。自分が声を出したい時に声が出せる。自分の資料が揃っている場所で教えることができる。とても贅沢なことだと思う。僕の一番大切な場所である。

ジャック・ブレル 芝abc会館ホール、草月ホール、内幸町ホール、愛知長久手森のホール、ブリュッセルサンピエール大ホール、十字屋ホール、気がついたらブレルだけを取上げたコンサートをこんなにあちこちで行っていた。ジャック・ブレルと検索したら伊東はじめという名前がでてきたのよ・・・という理由だけで前ベルギー政府観光局の局長は国内外で行われたブレル関連のイベントに僕を取上げて下さった。勿論若い頃から大好きだったブレルだが、取組み初めたのは40代の後半になってからだった。残念ながらブレルには会ったことも、コンサートに行ったこともないが、ブレルのおかげで今の僕がいるような気さえする。



2020年12月青木裕史さんが旅立ちました。五人でスタートしたから見れた夢、三人だったからできたこと、いつまでも僕たちはサンクオムです。



シャンソンの学校 ステュディオ モン・マルシェ